懐かしのラジオ番組
S盤アワー
戦後にスタートした本格的な洋楽番組の一つ。
戦後、日本ビクターがアメリカの RCA と改めて正式に原盤契約を行い、
洋楽ポピュラーを売り出すにあたってレコード番号を S−1 からはじめたために、
このシリーズを S 盤と呼んだ。(ちなみに S とは Special の頭文字。)
戦後新しいポップスに飢えていた人々の注目を浴び、
さらにレコードを発売する日本ビクターがスタートさせたラジオ番組
「S 盤アワー」も爆発的な人気を得た。
S 盤アワーは、昭和 27 年 (1952年) 4月2日、東京の文化放送で
第一回の放送を開始した。信じられないことに当時は電圧が一定でなかったために
番組録音中に電圧が下がり、レコードの回転が狂った等という話も残っている。
S 盤のイメージといえば、何といってもペリー・コモ、エディ・フィッシャー、
ハリー・ベラフォンテ、エームス・ブラザース、ペレス・プラード楽団、スリー・サンズ、
グレン・ミラー楽団といったアーティストが思い出される。
40年代からのアメリカのヒット曲のメインストリームを作ってきた人達と
その流れを汲むアーティストだった。彼らの新しい曲が次々と S 盤を通じて発売された。
ロックン・ロールが誕生し、S 盤最高のスターとなったエルヴィス・プレスリーも
日本に最初に登場したのは S 盤だった。
S 盤は SP レコードだったが、やがて塩化ビニールで出来た45回転の
シングル盤=ドーナッツ・レコードが現れた。そこで、SP 時代の精神を引き継ごうと
ドーナッツ盤のシリーズを SS−1001 からスタートさせた。
ドーナッツ盤時代にはニール・セダカやサム・クック、ブラウンズ、レイ・ピーターソン、
ジョニー・レスティヴォ、ロッド・ローレン等の新しいスターも登場してにぎやかになった。
加えて、ヨーロッバの RCA 系のレコード会社からもヒット曲が入って来るようにもなった。
S 盤アワーは犬の鳴き声の後、ペレス・プラード楽団の演奏による
「エル・マンボ」がオープニング・テーマ。後テーマは、ラルフ・フラナガン楽団の「唄う風」。
アナウンスは、当時売りだしたばかりの宮城まり子等が候補に上ったが、
結局はビクター・レコードの社員で素人の帆足まり子に決まった。
この番組は昭和 43 年 (1968年) まで続いたが、元々歌手志望だった
帆足まり子は、番組が終わると興味を持っていたラテン音楽の世界に入り、
メキシコに渡って現地の人と「ソサイア・トリオ」を結成し、アーティストとして再出発した。
日本でもレコードが紹介された。しかし、メンバーの一人が病気になったため
グループは解散。昭和45年、改めて日本人とラテン・デュオ、マリキータ&ジローを作った。
閑話休題。
時代は代わり、アメリカ RCA ビクターも買収されてドイツの手に渡り、
日本も RCA を管理する会社の社名が BMG (2001年現在はBMGファンハウス)に
変わるなど、だんだん S 盤アワーの良き日が遠くなっている。
S 盤アワーを飾ったヒット曲を集めたオムニバス盤
「想い出の S 盤アワー」が、これまで数種出ていたが、だんだん入手しにくくなっている。
曲は数曲重なっているけれど形を買えて出る度に集めていた
「懐かしの S 盤アワー」も今では大切なコレクションの一部である。
時の移り変わりと言うのか、世界大手のレコード会社、BMGとCBSが何と、
合併するという。CBSを日本のソニーが買収したとニュースにも驚き、RCAが
日本ビクターとの関係を断った時も驚き、MCAとフォノグラムが合併した時も
びっくりして、もうこれ以上驚くことはないと思っていただけに、世界最古の
レコード会社二社の合併のニュースには驚いてしまった。もうこれでEMIとワーナーが
仮に一緒になっても驚かない。何か驚くことがあるのだろうか。
話はかわって、S盤アワーの「帆足まり子」さんが、2003年12月27日、
お亡くなりになった。
L盤アワー
L盤は日本コロムビアがアメリカのコロムビア・レコード(CBS)と契約して
発売していたSP盤シリーズで、一部イギリスEMI傘下のコロムビアも発売していた。
戦後、S盤と同じように新しく契約が成立、レコードが供給されるようになり、
新シリーズとして、昭和24年8月、Limited の頭文字をとった L−1 から始まって
146 番まで続いた。当時の洋楽界はコロムビア・レコードの独走といった感じで、
S 盤が伸び上げてくるまで L 盤の天下だった。L 盤のリストには L 盤第1号、
レコード番号 L−1 のレイ・ノーブル楽団(バディ・クラーク歌)の「夢路まどかに」をはじめ
ダイナ・ショアの「ボタンとリボン」(L-2)、フランク・シナトラの「ホワイト・クリスマス」(L-7)、
ザヴィア・クガート楽団の「ベッサメ・ムーチョ(と記されている)」(L-12)、
ジョージ・モーガンの「キャンディ・キッス」(L-13)、
ドリス・デイの「アゲイン/イッツ・マジック」(L-17)等など強力盤目白押しである。
このような L 盤を使って放送する L 盤アワーはパーシー・フェイス楽団の
「恋をして」をテーマに薗 礼子のふわっとしたまあるい声で人気があり、
帆足まり子の S 盤アワーと並んで1950年代後半から60年代にかけて
大変人気があったラジオ番組だった。一方レコードの方は、
この L−1 シリーズ終了5ヶ月くらい前から L−3000 番台のシリーズがスタート。
こちらも100枚以上発売され、ジョー・スタッフォードの「明日にまた」、
ベニー・グッドマンの「あなたの想い出」、ドリス・デイの「ケ・セラ・セラ」、
フォー・ラッズの「バス・ストップの唄」、ジョニー・レイの「雨に歩けば」、
ジョー・スタッフォードの「霧のロンドン」、フランキー・レインの「OK牧場の決斗」、
マーティ・ロビンスの「ホワイト・スポーツ・コート」等、大ヒットが続出。
塩化ビニール製の45回転ドーナッツ盤の時代に入ってもヒットを生み出す精神を受け継ぎ、
シリーズは LL に設定された。これはビクターの S 盤と同じである。
LL−1は昭和31年、1956年の1月新譜でパーシー・フェイス楽団による「シンシアのワルツ」
(B面はL盤アワーのテーマ曲「恋をして」)だった。
S 盤アワーより遅れて昭和30年頃、ラジオ東京(現TBS)で、L 盤を使った
日本コロムビアの提供で始まったL盤アワーは日本コロムビアが発売していた
傍系のレーベルMGM(LL−5000使用)やコロムビア・インターナショナルのレコードも
大いに使用された。S盤アワーと並んで続々とヒット曲を送りだし、
1960年代に次々と登場した音楽番組の先鞭をつけたこれらの
プログラムによってヒット・パレードは花盛りとなった。
1968年にアメリカCBSと日本のソニーが合同出資してCBSソニーを設立。
それまで日本コロムビアがコロムビアの音符のマークを使って出していたレコードのうち
大半を占めるCBS原盤がCBSソニーに移った。
つまり本来のレーベル・イメージを支えていたLLシリーズが終了した。
以来、コロムビアの商標権を持つ日本コロムビアは
アメリカ・コロムビアのレコードを発売出来ず、また、コロムビアの音源の提供を受ける
CBSソニーはコロムビアのマークも L 盤シリーズも使えず、新しいレーベル、
新しいシリーズで再スタートをきった。L盤アワーもそんなころには終了してしまった。
こんなわけでこの後「懐かしの L 盤アワー」等といった L 盤の名称を使った企画物は
ほとんど現れなくなってしまった。
「懐かしのL盤アワー」的レコードはソニーから発売されている。
P盤アワー
S盤アワー、L盤アワーと並んで、レコード会社の番組としてP盤アワーも人気があった。
これはポリドールの番組だった。当時ポリドールは「ポリドール」と「コーラル」のレーベルを
発売していてSP盤時代にポリドールはPシリーズで、コーラルはCシリーズで発売していた。
ドーナッツ盤の時代に入って、いずれも頭にDがついてDP、DCのシリーズとなった。
ニッポン放送でP盤アワーがスタートした1957年4月26日、このころレコード界では
ドーナッツ・シングル盤の発売が軌道にのりはじめたころだった。ポリドールもこの月に
DP1001でリカルド・サントス楽団の「ラ・クンパルシータ」をドーナッツ盤で発売している。
P盤アワーは大沢牧子がDJを担当した。彼女は当時ニッポン放送のアナウンサー
(後にフリーになった)で、はじめは台本通りにアナウンスしていたが、
アメリカからDJスタイルが入ってくると勉強をかさね、台本書きから選曲まで
自分で担当したという。番組で使用したP盤は1953年(昭和28年)戦後再建された
日本グラモフォン社がドイツ・グラモフォンから原盤の提供を受けて製造を開始し、
ポピュラーの78回転25cm盤(SP盤)をP盤と名付けてP−1から発売した。
長い戦争と戦後の疲弊で、わが国のポピュラー音楽界、レコード界には
長いブランクがあった。現在ではとても考えられないことだが、敵国アメリカをはじめ、
外国の音楽は長いこと日本では発売されなかったのである。だから再建なったレコード会社が
S盤、L盤、P盤等と称して外国のレコードを次々と発売したことはファンにどれほど歓喜の声をもって
迎えられたかは想像に難くない。P盤はドイツ・グラモフォンの音源で、
素晴らしい録音技術のもと紹介された音楽は多くのファンを魅了した。
P盤アワーから生まれたヒット曲を集めたオムニバス・アルバムはこれまでに何度も
発売されたが、その1つにCDで出た「想い出のP盤アワー」がある。このCDには
収録曲がはじめてP盤アワーに登場した時のデータ等も詳しく解説されている。
アルフレッド・ハウゼの「碧空」は1957年(昭和32年)10月8日の第25回放送ではじめて
紹介されたとある。このあと大ベスト・セラーとなった(CDに収められているのは再録音)。
同じ回に登場したリカルド・サントスの「真珠採り」もP盤を象徴する大ヒットである。
他にベルト・ケンプフェルト楽団の「真夜中のブルース」や「愛の誓い」「星空のブルース」の
大ヒットの他、映画「最後の楽園」のテーマ「パペーテの夜明け」(CDでは
サウンド・トラック・テイクが用いられていない。詳しくは判らないが日本録音ではないかと
思われる。)契約で切れたのか近年入手が難しくなったトニー・ザイラーの「白銀は招くよ」
(CDには未収録)、フィルム・シンフォニック・オーケストラの「太陽がいっぱい」、
ウーゴ・ブランコの「コーヒー・ルンバ」等などなじみの大ヒットを数多く生んだ。
P盤は原盤がドイツだったために、アメリカン・ヒット盤の発売は少なかった
(初期のケーデンスはポリドール・レーベルで出ていた)がカヴァー・レコードが
健闘したケースも少なくなかった。「テキーラ」は日本ではスタン・ケントン盤がヒットしたが
P盤ではマックス・グレーガー盤が出た。「小さな花」ではリカルド・サントス盤、
「黒いオルフェ」「日曜はダメよ」は大ヒットになったヘルムート・ツァハリアス盤と、
競作盤もP盤アワーの後押しがあってヒット盤となった。番組のテーマ曲は最初のころは
リカルド・サントス楽団の「シンフォニー」で、途中からベルト・ケムプフェルト楽団の
「星空のブルース」に変わった。
魅惑のリズム
ビクターのS盤アワー、コロムビアのL盤アワー、ポリドールのP盤アワーに対し、当時、
洋楽のレーベルを抱えていたキング・レコードは「魅惑のリズム」というラジオ番組を
持っていた。キング・レコードは、ロンドン、マーキュリー、ABCパラマウントの
大レーベルの他、世界各国のマイナー・レーベルを集めたキング・インターナショナルを持ち、
ロンドン・レコードも世界のネットワークを通じて、ケーデンス、エラ、スペシャルティ、キャップ、
リバティ、カメオ、ドア、ローリー、フェルステッド、ワーウィック、モニュメント等、ポップスの
名門レーベルを発売していた。ABCパラマウントから登場したポール・アンカをはじめとして
キング・レコードはヒット曲を次々と出していった。これらのヒット曲はラジオ番組
「魅惑のリズム」を通じて紹介された。「魅惑のリズム」は全国20以上の放送局をネットした
番組だが、DJや放送スタイル等はっきりした記録が残ってなく、筆者も聴き覚えは
あるものの、はっきりと記憶してはいない。番組の後テーマはマントヴァーニ楽団の
「魅惑の宵」だった。ヒット曲を次々と出していたキングは、自社の邦楽アーティストに
カヴァーさせ、こちらも次々とヒット。ザ・ピーナッツをはじめ多くのアーティストが
フジ・テレビの「ザ・ヒット・パレード」に出演した。
ユア・ヒット・パレード
ラジオにおけるヒット・パレードの全盛期は1960年代の前期だったと思う。
その後FM局の誕生などで放送局が増え、ヒット・パレード番組も増えていったが、
情熱にあふれ、ヒット・パレードの番組からまさにヒット曲が生まれていく時代だった。
全米では、フランク・シナトラやドリス・デイ全盛のころの1940年代、
人気歌手がヒット曲を歌うラジオ番組「ユア・ヒット・パレード」が人気を博し、
この番組を手本にして、日本でもTVの「ザ・ヒット・パレード」が登場したし、
スタイルや番組名で「ユア・ヒット・パレード」は、日本各地のラジオにあった。
日本でのヒット・パレード番組は、東京文化放送の「ユア・ヒット・パレード」に
はじまったといっても過言ではない。この「ユア・ヒット・パレード」は特に映画音楽に力を入れ、
以後のヒット・パレードに大きな影響を与えた。「ユア・ヒット・パレード」は
映画紹介を毎週メインの一つにしたこともあって映画音楽が強かった。
また、映画音楽が強かった理由の一つは、レコードが発売されていないものでも、
映画のフィルムから直接録音して紹介し、それがヒット・パレードに入ることも多かった。
結局レコードがないままヒットしたケースもあった。このフィルムから直接録音するスタイルは、
キング・レコードが取入れた。フィルムから直接録音したセリフ入り音楽は
キング・アンコール・シリーズとして日本独自に発売された。今でもCD化されて入手出来る
「鉄道員」や「真夜中のブルース」、「ヘッド・ライト」、「マルセリーノの歌」等は当時
キング・アンコール・シリーズで出たものである。「ユア・ヒット・パレード」では他にも
レコード化されなかったが「シェーン」のサントラや「太陽がいっぱい」
(後、音楽の部分だけレコード化)の効果音入りサントラも放送して人気が高かった。
「ユア・ヒット・パレード」の順位は月刊の映画雑誌等にも紹介され、地方のファンも
ひそかににダイヤルをあわせてはノイズの中で番組を聴いていた。
「ユア・ヒット・パレード」の放送開始は1955年10月1日で、第1回は映画の紹介。
順位の発表は10月8日の第2回放送から。
この「ユア・ヒット・パレード」で最も有名なのは「エデンの東」の長期No.1ヒット。
1955年10月29日初登場、12月10日にNo.1になってから1958年の1月まで実に2年間、
あしかけ4年にわたってNo.1(この間「ショー・ジョー・ジ」、「ケ・セラ・セラ」、「誇り高き男」、
「ラヴ・ミー・テンダー」、「雨に歩けば」、「霧のロンドン」、「ジェルソミーナ」、
「アイル・ビー・ホーム」、「ママ・ギター」、「ホワイト・クリスマス」がNo.1についたことがある。
その時は「エデンの東」は2位、あるいは3位に後退。)にランクされ、
1959年7月の二百回の放送のころまで4年近くにわたってヒット・パレードに入っていた。
確かに曲の良さもあるが、こんなに長期に渡ってチャートに留まらせると言うのは
制作者の意図も働いていると思う。そういうことが出来た時代だったし、
自信を持って音楽シーンをひっぱって行こうとする人がいたということだろう。
東芝ヒット・パレード
まだテレビがなかった時代、家庭での娯楽と言えばラジオだった。
子供の私にも自然にラジオにとけ込んでいった。
最初は聴くというより聞こえてくる感じだった。このような状態がどのくらい続いたのか
分からない。そのころは曲名や演奏者名は分からなかったし知ろうともしなかったが
エルヴィス・プレスリーの「ハートブレイク・ホテル」や、ビル・ヘイズの
「デイヴィ・クロケットの歌」、テネシー・アーニー・フォードの「16トン」などが
ラジオからよく流れていた。 ある時、いい曲が流れてきた。
それまでの「聞こえていた」から「聴いた曲」だった。映画音楽の「鉄道員」だった。
このころから音楽に興味を持ち始めたと思う。そして自分がいいと思う曲、
好きな曲は外国の曲が多かった。それまで何となく聞いていたラジオを本気で
聞くようになった。ヒット・パレードという番組があることも知った。
そうして最初に出会った一つが「東芝ヒット・パレード」だった。
「東芝ヒット・パレード」は1957年ぐらいからスタートした番組らしい。
まだレコード業界は小さなマーケットだったが、将来性があった。レコード会社も
宣伝に力を入れ、自社のレコードを使ったラジオ番組を提供した。
ビクターの「S盤アワー」やコロムビアの「L盤アワー」が人気を集めていた。
後発の東芝レコードも提携先のイギリスのEMIのHMVレーベル(エンジェル)、
アメリカのキャピトル・レコードを使用して、親会社東芝の提供で30分プログラムとして
全国ネットで放送された。「東芝ヒット・パレード」が最初からヒット・パレード・スタイルを
とっていたかどうかは不明だが、最初のころはタンゴの「ラ・クンパルシータ」や
シャンソンの「ルナ・ロッサ」、フランク・シナトラの「国境の南」などが放送されている。
私が初めてこの番組を聞いたのが何時なのか、正確にはわからない。
しかし、ヒット・パレードの順位を記したメモが残っている。1959年の11月15日。
想像するにたぶんこの年の10月くらいから聞き始めたのではないかと思う。
1959年11月15日の順位は
1 皆殺しの唄 ネルソン・リドル楽団
2 情熱の花 リーヌ・ルノー
3 恋のブルース フィリップ・ブラックとボーイス・アップステアーズ
4 ライフルと愛馬 ディーン・マーティン
5 キサス・キサス・キサス ナット・キング・コール
6 タイガー・ロック ファビアン
洋楽を聴いている友達なんかいなかったし、ラジオを聞いて、それをメモにとるなんて
習慣もなかったので、最初の頃の記録はない。だから最初のころははっきり覚えていない。
本格的に、そして一生懸命に聞くようになったのはそれから半年くらい経ってからだった。
毎週、順位をメモに残すことを思いつき、後の資料となった。
のめり込み始めたころが最も懐かしい。
1960年4月24日の順位は
1 燃ゆる想い ジャミー・クー
2 ショーレム アーサ・キット
3 ライダース・イン・ザ・スカイ ケイ・スター
4 今日は上天気 ドン・ロバートソン
5 デートの日まで エルジブルス
6 カウント・エヴリ・スター ビリー・アダムス
7 ホワイ フランキー・アヴァロン
●燃ゆる想い

「燃ゆる想い」は私にとっては、永遠にベスト3に入るほどの愛聴曲。曲といい、
アレンジの素晴らしさといい、歌声といい、文句のつけようがない。
次の新譜を心待ちにしていたが、ついに日本では発売されなかった。
●ショーレム

アーサ・キットは「S盤アワー」などで「ウシュクダラ」や「ヤンミー・ヤンミー」、
「セ・シ・ボン」などで馴染みの歌手でそのユニークな個性が忘れられない人だった。
そのアーサ・キットが東芝が新しく契約したレーベル、キャップ・レコードの
シングル第1回発売として選ばれ、「ショーレム」が発売された。これまたバックの伴奏が
素晴らしく、スマッシュ・ヒットを記録した。例によってユニークな歌声で、
この後も「カバのジャンボ」、「恋のビタミンABC」とシングルを出したが、
残念ながらヒットはしなかった。キャップ時代の作品は入手しにくくなっている。
● ライダース・イン・ザ・スカイ

今はこの曲大好きなのに、当時はどちらかと言えば嫌いな曲だった。
せっかく買ったシングル盤もやがて中古盤屋で処分し、新しいシングル盤を買った。
そしてやがて後悔する日がやってきた。だんだん気になっていった。
ある日「ライダース・イン・ザ・スカイ」が入ったオリジナル・アルバム「ムーヴィン」を
手に入れた。最高の再会だった。それまでシングルでしか聞いたことがなく、
モノーラルの音しか知らなかったが、これはステレオ。ヴァン・アレキサンダー楽団の
伴奏も素晴らしい。以来ケイ・スター・レコード・コレクションの道にはまってしまった。
ケイ・スターのレコードはなかなか発売されないが、長い間には結構国内盤も発売された。
☆ムーヴィン(キャピトル)
☆ファビュラス・フェイヴァリッツ(キャピトル)
☆カウント・ベイシーとケイ・スター(パラマウント)
☆ワン・ジ・オンリー(RCA)
☆ロッキン・ウィズ・ケイ(RCA)
☆ブルー・スター(RCA)
以上、国内盤で入手したもの。以下、輸入盤。
☆In A Blue Mood (Capitol) T-580
☆I Cry By Night (Capitol) ST-1681
☆Losers, Weepers (Capitol) ST-1303
☆The Kay Starr Style (Capitol) T-363
☆Jazz Singer (Capitol)
☆The Hits Of (Capitol) T-415
Wheel Of Fortune, Comes A-Long A-Love, Three Letters, Bonaparte's Retreat
Fortune In Dreams, The Man Upstairs, I Waited A Little Too Long, Kay's Lament
Half A Photograph, Fool Fool Fool, Allez-Vous-En Go Away, If You Love Me
☆Just Plain Country (Capitol) SM-1795
☆Again (Capitol) ST-11323
☆Back To The Roots
ほかに1940年代後半、ラジオのための録音をまとめたハインドサイト・レコードも
出たことがある。さらにオムニバス盤にに収められた初期の作品もある。
なおCDで、キャピトル時代のヒットをまとめた Definitive 、RCA でのヒットをまとめた
The Essential RCA Singles Collection がある。
●今日は上天気

「知りたくないの」の作曲者として知られるドン・ロバートソンのレコード。
ドン・ロバートソンは1956年に「楽しい口笛吹き」をアメリカで大ヒットさせたが、
ヒット曲はこれ1曲で、後はソング・ライターとして成功した。
特にエルヴィス・プレスリーのために多くの曲を提供している。
その彼が「楽しい口笛吹き」に続いて口笛によるレコードを作った。
それが「今日は上天気」。この軽快で楽しい曲は、残念ながらヒットしなかったが、
キャピトル・レコードらしい洗練された音作りで、私の大のお気に入り。CD化して欲しい曲。
●カウント・エヴリ・スター

ビリー・アダムスはサン・レコードにも録音を残しているアーティスト。
残念ながらヒットは出すことが出来なかったが 東芝ヒット・パレードでは小ヒットを記録した。
ヒットも出なかったので復刻は難しいが、外国盤で1度だけ
「カウント・エヴリ・スター」を含むアルバムが出たことがある。
●ホワイ

この時期、一番印象に残っている曲。そしてこれからも私にとって永遠の
ベスト・スリーに入る曲だと思う。原盤チャンセラー・レコードだが、
このマイナー・レーベルを当時東芝がエンジェル・レーベルで発売していた。
フランキー・アヴァロンは「ヴィーナス」に続くヒットが「ホワイ」だった。
この甘いラヴ・ソングはティーンズ・ソングの典型的な形。
最初の一音を聞いただけであのころが蘇る。
以上で1960年4月24日付けの順位にまつわる話おしまい。
実は1959年11月15日に順位の記録を取ったものの、それから1960年4月24日までの
記録は残っていない。その間かどうだかはっきりしないが、ただ聞くだけだったのだろう。
しかし、この後、このように素晴らしい曲の数々を自分の好きなときに、
好きなだけ聞くためにレコードを集めることを始めた。
続く
今週のヒット・パレード
福岡の放送局、KBC九州朝日放送が1956年暮からスタートさせた
洋楽だけのヒット・パレード番組。毎週日曜日の午前10時から、当初40分、
後に30分になった番組で、化粧品会社がスポンサーだった。
民放が スタートして間もなく「S盤アワー」や「L盤アワー」など、洋楽の番組が人気を集めた。
これらの番組は戦後、日本のレコード会社とアメリカのレコード会社の契約が整い、
新しい洋楽レコードの普及を目的として発売レコード会社がスポンサーとなって
放送されたものだが、やがて放送局主導で、聴取者からのリクエストなどを集計するなどして、
レコード会社一社にとらわれず、全社のレコードを対象にしたヒット・パレード番組が登場した。
初期の番組で有名だったのは東京の文化放送がはじめた「ユア・ヒット・パレード」だった。
こうした番組が人気を集めたことから、全国の放送局で独自のヒット・パレードが始まった。
60年代に入ると、全国でヒット・パレード花盛りとなった。
KBCの「今週のヒット・パレード」は61年秋まで続いた。
1959年11月22日付け順位
1 情熱の花 カテリーナ・ヴァレンテ

2 殺し屋のテーマ ペリー・ボトキン
3 谷間に三つの鐘がなる ブラウンズ
4 皆殺しの歌 ネルソン・リドル楽団
5 煙が眼にしみる プラターズ
6 恋の日記 ニール・セダカ
7 チャオ・チャオ・バンビーナ トニー・ダララ
8 キサス・キサス ナット・キング・コール
9 かわいい花 ピーナッツ・ハッコー
10 恋のブルース フィリップ・ブラック
日曜グランド・ショー
福岡の放送局RKB毎日放送が1959年11月1日からスタートさせた番組。
当時の番組は30分番組がほとんどで、15分、10分、5分番組も多かった。
そんな中で「日曜グランド・ショウ」は2時 間の生番組で、「画期的な公開ワイド番組」と
評された。当時、RKBは局内に200〜300人は収容できたホールを持っていた。
客席がステージを見下ろす階段状に作られていた。ホールを見渡せる調整室があり、
放送に対応していた。このホールで毎週日曜日の昼3時から5時まで2時間にわたっての
生放送だった。番組の構成は地元の男声カルテットによる「ヴォーカル・タイム」、
地元の劇団の俳優などの出演による「なんでもクイズ」。この出演者の中には
下川辰平さんもいた。続いて地元の楽団、深見俊次とハッチャ・スイング・オーケストラの
演奏による「ジオール・ミュージック・ホール」、ゲストによる時評、文化評「言いたい放題」、
そしてニュースなどを交えて、最後には「ポピュラー・ベスト・テン」と続いた。
番組は1年ほどで終了したが、そのころは放送時間も2時から4時の放送に変更されていた。
1960年10月30日付け順位
1 マイ・ホーム・タウン ポール・アンカ
2 月影のキューバ セリア・クルス

3 太陽がいっぱい フイルム・シンフォニック・オーケストラ
4 イッツ・ナウ・オア・ネヴァー エルヴィス・プレスリー
5 グリーンフィールズ ブラザーズ・フォー
6 バッファロー大隊マーチ アート・ムーニー楽団
7 ビキニ・スタイルのお嬢さん ブライアン・ハイランド
8 ムスターファ ロス・エスパニョレス
9 メロンの気持 グローリア・ラッソ
10 アフリカの星のボレロ フィルム・シンフォニック・オーケストラ
今週のベスト・テン (東京放送)
東京放送〜後のTBSが1957年から始めた洋楽のヒット・パレード番組。
文化放送の「ユア・ヒット・パレード」に遅れること15ヶ月、
「ユア・ヒット・パレード」の成功に刺激を受けてスタートしたと想像されるが、
日本の洋楽普及に大きく貢献した番組の一つである。
「ユア・ヒット・パレード」は東京だけの放送だったが、そのランキングは雑誌などでも
紹介され、全国に知られる存在になったが、「今週のベスト・テン」は
番組そのものが日本各地で聞くことが出来、大きな影響力を持つようになった。
またスタッフの熱心さは「ユア・ヒット・パレード」以上かも知れない。
と言うのも「ユア・ヒット・パレード」の順位記録は音楽雑誌が発表したのは
残っているが、番組サイドから発表したのは見たことがない。
「今週のベスト・テン」は正式には公には出ていないかも知れないが、
スタッフが残した資料を私は見せてもらったことがある。
番組初期の1年くらいは残っていないようだが、各回のランキングが
資料としてまとめられていた。
9500万人のポピュラー・リクエスト
オール・ジャパン・トップ20
「ユア・ヒット・パレード」が東京エリアだけだったのに対し、文化放送が
ネット・ワークを通じて全国放送を始めたのが「9500万人のポピュラー・リクエスト」だった。
ヒット・パレードの先駆け番組を始めた文化放送だけに、「ユア・ヒット・パレード」で培った
ヒット・パレード番組のノウ・ハウを最大限に、また、ネット・ワークの力も効果的に
使いながら、1960年代に於ける日本のヒット・パレード番組の顔になった。
番組は1963年4月5日にスタートし、文化放送をキー・ステイションに全国34社、111局を
ネットする番組だった。やがてビートルズが登場することになるが、
それまでに受け入れる下地を十分に作っていたと言える。いち早く、
キャッシュ・ボックス誌と提携して、最新のアメリカの情報を本場から伝えたと言うのも
当時としては斬新だった。しゃれたセンスを持った小島正雄をトップの人気DJにした。
なお、番組は1967年まで続いた。番組終了の翌年、小島正雄は亡くなった。
「9500万人のポピュラー・リクエスト」の後を受けて、同じ文化放送をキー・ステイションに、
全国ネットの「オール・ジャパン・ポップ20」と言う番組がスタートした。
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